昭和51年02月11日 朝の御理解



 御理解第 28節
 「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸がえをするに、八、九分かえて、退屈してやめれば、掃除はできぬ、それで、やはり水は濁っておるようなもので、信心も途中でやめれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」

 ここで一番大切なのは最後ん所。元気な心で信心せよと言う事です。元気な心で信心を致しませんと、例えばここでは途中で信心を退屈して止めればという風に教えておられますけれども。例えば止めないに致しましても、ね、まあ言うならば中途半端な信心が一生続いて所で、決して井戸は清水になるまでと言う様なおかげにならん。病気災難は根の切れるまでと言った様な輝かしいおかげになって参りません。ね。
 だからここの28節、それこそ輝かしいまでのおかげを頂かせて頂く為には、いわゆる井戸は清水になるまでという信心それには、ね。病気災難は根の切れるまでとこう仰る。一心にまめで繁盛するよう。しかも元気な心で信心せよと仰る。その元気な心で信心せよと言う所が、だから勿論大切だと言う事です。昨日の御理解を頂きますと。もりもりの力によって神のひれいが違うのぞという御理解を頂いたんですが。
 そのもりもりの力と言う事は勿論、神様のお守をしておる、言うならば教会長の信心遺憾だという訳です。けども是は金光様の先生だけの事じゃありません。先生も力を受けなければなりませんけれども。おかげを取り次いで貰う信者氏子側の方も、力を頂かんとおかげは受けられません。どんなにお徳の高い力のある先生であっても。ね。お取次ぎを願う側の信者氏子の側の方がです、力がなかったらおかげを受けられません。
 百斤のものをお取次ぎ下さったら、その百斤の物が持てるだけの力が、やっぱりいるのです。ね。どうぞ千斤ものと言うてもです。ね、百斤しか持てないなら後の九八斤は置いて帰らんなりません。ね、そんなもんです。だからその力を受けると言う事です。私はそういう意味でです。なら病気や病人や、代々難儀の続く人と、こう教えておられます。あれほど信心されるのに、どうしてああ言う事が起こったじゃろうかとか。
 あれほどの信心をされるのに、ね。大したおかげに言わばなっていないというのは、どんな事、どういう神様の御神慮のあっての事だろうかと思う様な事が沢山ございます。どこの教会でもあります。例えば私共の場合まあ信者と致しましてはです。本当に大坪さんがおかげ頂きなさらんはずはないと言う位な、しかも一家を上げて信心させて頂いたんです。それでも矢張り次々難儀な事が起こったんです。ね。言うならば財産を打ちぶってしもうて、引き揚げて帰って来なければならない事やら。
 引き揚げて帰って参りまして、半年足らずの内に兄弟三人の葬式をしなければならないと言った様な。かてて加えて長年させて頂いておった酒屋の、酒の卸小売業というのも、止めなければならないような破目になったんですからね。もうどんなに考えてもです、どうして信心させて、あれだけ熱心に一家中で信心しておられるのに、あんな難儀な不幸な事が続くだろうかと、まっ人も言い私共も矢張り思わんではなかったのですけれども。ねとにかくそういう難儀な破目になって行くと言う事がです。
 結局今までの信心が間違っておったからだと言う事。言うなら信心を頂かずに、おかげだけを頂いて来たという信心であったと言う事。これはどんなにおかげを頂く信心が続いても、それではね、それでは井戸替えと言った様なおかげになって来ません。めぐりのお取り祓いだけはしてると言った様なおかげになって参りません。めぐりのお取り祓い。だんだんおかげを頂いて、もうそれこそ難儀な事が続けば続くほど、信心は一つのいきおいを増して行った。
 どんな難儀な中にあっても、もう本当にそんなに有難う、その難儀な中にそんなに有り難いとですか、本当に有り難いとですかと疑われる位に有難い信心をさせて貰った。昨日一昨日でしたか。吉井の波多野さんがお参りして見えて。先生、先日は久留米の佐田さんとこの共励会にやらせて頂きまして、もう本当にもう佐田さんの一家ぐらい、まあ合楽の一つの小型のような信心と言うか、おかげの現れておられる所は又とありません。もう本当に合楽をちょっと小型にしたというだけだと言う様な感じでした。
 実は私はどうも佐田さんの信心に疑いを持っておりましたと。ほんな事っじゃあるじゃろうかと。あれほどの一家を上げての信心をなさるのに、例えば火事に遭われるなんて、とてもそんな事があるという事も不思議ですけれども、その火事のあった時点でです、もう、まあ極端に言うなら嬉しゅうして堪えんごたる顔してござると言う事はです。是は普通じゃない、是はほんな事っじゃないと思うとったち。ね。所が今度共励会にやらせて頂いてです、佐田さんの信心を本当に分からせて頂きゃ頂くほどです。ね。
 例えば難儀に直面したもうその時点でです。お取り祓いを頂いて有り難し。ほらあ神様はこの後のおかげはどういうおかげじゃろうかと、思うただけでもニコニコせにゃおられんと言った様な内容があられた事を、今度の共励会で行ってハッキリ分かりましたと言うて、ここでお届けされました。私共の言うならば難儀が続いております時代。もうそれこそ食べるに食がない住まう家がない。
 着るに衣がないと言った様な時代であってもです。ね、何人も私にその時代その時分に私は信心を、皆さんがあったと言うけど。ほれはもう本当にあの時分の大坪さんの信心は、それこそ後光がさすというのはああいう姿じゃろうと言う様に実際言われて来たです私は。また私の心の中にはもうそういう喜びが、もう一杯でした。ね、いわゆる元気な心で信心が出けたのです。元気な心でおかげを頂かにゃというんじゃない。もう元気な心でですそういう中に、愈々信心の奥がへ奥がえと進んで行ったんです。
 分かれば分かるほどだから、お礼を言わなければおられなかったんです。ね。だから本当に難儀の続くまあ私は思うのですけれども。お道に御神縁を頂いたと言う事、その事がです。私は信心のない人よりも、恵が大きいからこそ神様が手を差し伸べて下さったのが、金光様の御信心を頂く様になったと言う事になるのです。だからその自覚が出来なきゃいけん。金光様はおかげを頂くからという信心が一生続いた所で、大して事はないと言う事です。考えて見ると本当にこれを廻りと言わにゃおれないと言う様なね。
 事実を自分の心の中から、または自分の家庭の中から、続く難儀の中からです、それを感じ取らせて頂く所から言うなら、どこから湧いて来るから分からん、もりもりとした信心の力が出て参ります。こう混ぜりゃもう下から濁って来る。上の上澄みどんこう、汲んで頂きよるようなおかげではいけません。先日私はある方のお届けをさせて頂いたら、堤防の堤防ですね。その堤防のそこが丁度こう、まっそうですね一尺足らず位に、こう窪んでるんですその堤防の上が。
 その窪んでおる所にね、その言うならば雨水なら雨水が、こう溜まっておる所を頂きました。そしてその雨水がです。もう中にスーッとこう、吸い込んで行くとこを頂いた。ははぁほんな言うならば堤防のその土手に、窪みが出けてその窪みに水が溜待っとる位なおかげを、おかげとどん思うとる様な事ではおかげにならん。返ってその窪みからです。下へその水が吸い込んで行って行く内に、いつの間にかヒビが入って行く。それこそ蟻の一穴から、ね、堤のやら堤防のいわばでいが続いてしまうと言う事があります。
 蟻の一穴と言うのは、ね、(すがるの事です。ありの事は?)。アリの穴の小さい様な穴があるとです、そっから水が入って行って、だんだんそれが大きくなって行ってです。そこから、堤防が決壊する様な事にもなるぞと言う事です。信心しておってめぐりの大きい事も分かっておってです。ただ信心もせずにちっとばっかりのおかげを、いわば溜まり水のようなお恵みをおかげと思うて居る様な事では、それこそ堤防がけっかいするような結果になるのです。ね。
 はあ、本当に自分の家はめぐりが大きいと思うたら、本当にそのめぐりのお取り祓いを頂かせて頂く事の為に本気でです。言うならば、おかげ信心じゃない、真の信心を分からせて頂く事の楽しみがです、出来てくるようなおかげを頂かにゃいかん。昨日の御理解を頂いてです。ね、もりもりの力というその力を受けると言う事。なら力を受けるためには、どういう信心をしたら良いかと言う事が、昨日の御理解には説うてなかったですね。昨日の研修をさせてもらう時に。
 そこん所に焦点を置いて、信心の研修を致しました。3時から4時までの一時間の間。本当に神様の御都合という事は恐れ入ってしまいましたが。信者一般というのじゃなくて、これからお道の教師にでもならせて頂こう。またお道の教師のおかげを頂いておるという、昨日はちょうど研修に集まった方達が21名かおりました。その21名の方達が一人ひとり、その昨日の朝の御理解を発表しておりましたが、本当に皆さんのその頂きどころを素晴らしさに、私はもう驚きました。
 あの善導寺の先生方が発表した後に、御信者さんがたも4、5人発表して貰ったんですけども、中に原さんがあの発表しておられました。昨日の御理解に基づいてです。ね。例えば、あの主人が亡くなられ、それから娘婿が亡くなられ。それからもう一人だったかな。そういう例えば不幸に出会った時の事と、昨日の御理解とをこう合わせながらね、話されました。ね、だからそういう難儀に直面した都度つどに、私の信心はいわば本当なものに段々なったという意味の事を話されました。ね。
 今日の御理解です。めぐりの自覚が出けておらなければ出来る事じゃありません。娘は親先生のお許しを頂いて、ね、嫁らせた。ね。子供が一人出けてそして交通事故に遭って、その親子三人で、丁度親戚のあれは(   )か何かに呼ばれて、帰り道に事故に遭ってその亡くなられた。親先生のお取次ぎを頂いて、そしてその娘をやった所の、そのいわゆる娘婿がです。いわゆる柱とも思う、その娘婿が亡くなった時なんかは、それこそね、どうした事だろうかと言う様な事ではあったけれどもです。ね。
 そういう難儀に直面する都度に、私の信心はそれこそ成程ビクともしとらなかったですね。信心がそれで疎かになると言う事は、もう矢張りなかったです。その事を交えながら、昨日の力を受けると言う事の話をされました。ね。信心を止めなくてもです。ね、只その辺の所がしだごだで続いておると言った様な事ではね、今日のいわゆる元気な心で信心。一心でまめで繁昌するように元気な心で信心せよと言う事にはならん。
 先ずそういう信心が出けなければです。ね、言うならば井戸替えと言う様なおかげにはなって来ん。それこそ懇々と尽きぬおかげが湧いて来るようなおかげにはならん。只堤防の上に溜まっとる、溜まり水ぐらいなおかげで甘んじておってはおかげにはならんという事。昨日ここで修行しております人達が三人三様、その力を受けると言う事について、お知らせを頂いておるのに私は昨日驚きました。
 夕べのお月次祭にも申しましたように、その今村さんがね大きな、あの食用蛙の入っておる大きな箱と、それからもう蛇がいっぱいごちゃごちゃと入っとる、そのお知らせを頂いたと言う。私共の幹三郎がもうそれこそ立派な自分にこんなには勿体無いと言う様な立派な車を頂いたんです。所がそのエンジンが起らないもんですから、それを自分で綱つけて引っ張って行きよる所をお知らせに頂いておる。
 そして引っ張って行きよる内に、えらい軽うなったと思うた所が、後ろの車がその今まで立派な車であったのが、木の車に変わっておるというお知らせであった。井上さんが頂いておるのは大変是は、井上さん自身のプライバシーの事をね、なりますから言われませんけれども、とにかく今のあなたの信心が言うならば中途半端だ。これではおかげにはならんというお知らせを頂いとる。信心しとっただけじゃいかんち。ね。
 只おかげ信心じゃいかん。成程道の教師でも志そうかと言うのじゃから、本気になったごたるけれどもです。なったならなったでまだそん位な事じゃいかん。本気で信心の熱情をそこに起こさなければおかげにはならんぞというお知らせを頂いておった。今日の御理解の通り。ただ信心を止めればじゃなくてです、止めんでも只々信心が続いておりますと言った様な事ではおかげは受けても、言うならね、井戸は清水になるまで。
 言うならばめぐりのお取り祓いが頂けると言った様なおかげには、繋がらないと言う事です。昨日桜井先生がここでお届けをされました。もう先生私はもう小さい少年時代からです。非常にその修養書を沢山読みましたち。ですから本当に真面目にもうそれこそ人から真面目人間と言われる位にです、やっぱそういう勉強をしておられたから、もう真面目に、真面目にその生きて来たけれども。最近の親先生の御理解を頂きよるとです、真面目だからと言うておかげを頂かん。
 返ってその真面目である事がおかげを頂かん元になると言う様な御理解をこの頃頂きますから。ね、これって改めにゃいかんと思いますと言う事ですから、私が申しました。冗談のごと貴方、信心が出けたその上に貴方、真面目であるち言うならもう、鬼に金棒じゃないですか。信心がなくて真面目であるというたら、ただ道徳的である。修養が出けとるというのであっては、結果においては返って清貧に甘んずると言った様なおかげしか生まれて来ない。
 真面目にやってさえ行きゃ、神様は見とって下さる。信心せんでもおかげになると言った様な考え方が甘いというのであって、真面目であると言う事がいけないという意味じゃないですよと言うて、まあ笑った事でした。なら今までの言うなら桜先生の取り柄ってのは、その真面目であると言う所でしょうもんね。誰よりも言うなら真面目であると言う事なんです。けれどもねいかに真面目であっても、信心が出けておっても、いくらお道の教師の資格を頂いておってもです。
 真面目だけでは、私は昨日も申しましたように、はああそこん先生は真面目であるけれども年を取るに従って、段々寂しゅうなって行きよんなさる先生が、いくらもあるということ。ね。真面目だけではいけん。ね。それこそここで力を頂けねばならん、またおかげを頂かせようとされる働きが始った時にもう一本勝負だと。例えば佐田さんがさあね、燃え上がったその時点にです、神様にお礼を言う心が生まれなさったように。もう一本勝負です、力を受けるというのは。
 これだけ信心するとにどうしてじゃろうかと言った様な、しだごだな信心が例えばいかにそれが真面目に続いておっても、それでは力にはならないと言う事です。ね。言うならば井上くんが頂いておるようにです。いつも言うならば、ね、信心いわば中途半端な、ただ信心が真面目に続いておるというだけでは、今日の御理解のような井戸は清水になるまで。病気災難は根の切れるまでと言った様な輝かしいおかげになって来んです。ね。元気な心が足らんのです。
 昨日私ここで修行しております永瀬君に言いました。先日から風邪引いて休んだち。アンタどんが今風邪引くひまがあってどうするかち私が申しました。(無理だね、先生がもんなこと言うた?)ほらもう合楽に参りゃ風邪も引かれんと言う事じゃないです。今それこそ、もう修行の火の玉んごつなって修行せにゃならん時に、アンタどんが風邪引くひまがあってどうすかち言うた。はっは。私共が修行中の時分に、それこそ風邪なんか引いた事もなかったが。
 ちょっとこれは風邪引きかなという時には、サッとそれこそお水一杯よけい被ると、もうスキッとしよった。そういう言うならば元気な心がね、必要だと言う事なんです。ね。そこで、なら今村さんが頂いておりますようにです。ね、力を受けると言う事は、ね、とても足がガタガタ震うて前には進まれんご足る様な事に直面した時です。言うならばそこに大きなガマが出て来たと言う様な時です。怖い物がそこに出て来た時です。それを頂いたらいわゆる、あの食用蛙と言うのですか。
 大変まあこれは鶏よりか美味しかと言われる。(そりゃそうっじゃん?)私食べた事なかけん分からんけど。美味しいそうですよ。ね。というその美味しい血にもなりゃ、肉にもなるような物を、恐がって頂かんというのじゃいかん。幽霊の正体見たり、枯れ雄花であってです。恐いと言うて、ガタガタ震えよったんじゃ、それでだけでもおかげ頂かんです。そこを勇気を出して、側に行って見た所が、恐い物ではなかった。
 幽霊ではなかった位な事ではない、神様がこういう力を下さろうとする働きであったというものを頂ける。そういう勇猛心がまたは度胸がいるんだと言う事信心には。ね。信心にはいわゆる信心度胸がいる。商売人には商売度胸がいるように、信心には信心度胸がいる。ね、どういう問題でもどっこいと、こう受ける時に初めて力が得られるんだ。同時にです、めぐみの自覚です。ね、蛇が片一方ならここには一杯うようよするごと入っとったと言う事はです、どういう痛い痒いと言うか。
 難儀な問題に直面してもです、今こそやれ痛や今みかげをという心にならにゃいかん。今こそ、恵のお取り祓いを頂いておると言うて、お礼を申し上げて行くような信心から、力というものはいわゆる、もりもりの力と仰せられる力を受けられるんだと言う事です。ね。めぐりのお取り祓いを難儀と思うたり、恐くもない物を恐いと思うたりでは、力のつけようじゃないか。ね。今村さんが頂いたのはそういう、これいわば的確なお知らせです。ね。大きないわゆる食用蛙とその蛇をこう一箱ずつ頂いた。
 そしてならそれは恐いモンでも何でもない。こんなにも美味しい物であると言う事になるの。本当にめぐりのお取り祓い、めぐりのお取り祓い。有り難いとその事に対してお礼を言うような心になって来る時にです。成程めぐりが深ければ深いほど、おかげが大きいという訳が分かるです。めぐりが大きければ大きいほどおかげが大きい。ね。幹三郎が頂いておる、どんなに素晴らしい車を頂いておりましてもです。ね。自分が自分の力で引っ張って行くというような事ではいかん。
 こげな事っじゃいかん、木の車になっとったと言う事は心と。木は心と言うです。ね、こげな事じゃいかんと思うけれども、こんな事じゃいかんと思うけれどもと。ただ、ね、素直な素直だというよりも、まあその桜井先生の例を取ったが良いでしょうね。自分は修行しよる、ね。いわゆる真面目にやってさえ行けばというような信心。そしてそこでなら幹三郎がね。真面目にやってさえ行きよりゃ良い、真面目にさえやって行きよりゃ良いと言った様な事じゃいかんけれども、ではいけんと言う事です。
 真面目の上にです一つのね、神様の御発動が頂けるような勢いがいると言う事です。ね。例えば発動機今はどうか知りませんけれどもね、あのハンドルを昔は回しよったです。ね、ソローソロ回ったっちゃ発動は起こらんです。ヤーという力を入れてこう回して、発動がドッドッドッドッドと言うて、起こって来るんです。ね。本当にまあそれこそ目覚しいとか、凄まじいまでのごひれいとか、おかげとかというものはね、神様の御発動があるからなんです。神様が発動ましますからなんです。
 おかげになるのです。人間の力じゃどうにも出けない様な事が、神様の御発動を受ける時にです、もうあれよあれよと言う様な大きな、輝かしいおかげになって来るのです。だからどうでも元気な心で信心しなければ出けんのです。ね、折角自分には勿体無いほどしの車を頂いておってもです、木の車に変わってしまうような事ではいけん。ここと言う所には本気で一つ、もうそれこそ命がけで一生懸命と言う事、命掛けでの信心が出けなければ発動が起こらん。ね。本当にねその為にはです。
 例えばもう只今修行中と言った様な、それこそ看板上げたとかにゃいかんです。ね。只今休場中という看板が掛かっておられる、お店ならお店でもです。誰も尋ねて来る者はおりません。ね、ですから例えば只今修行中と言った様な看板を掛けておけばです。ね、自分の信心の邪魔になるような事は起こって来んです。ね。そういう例えば看板を掛けとらんから信心、折角信心しよるとばこうして引っ張られするような、グラッとこう回って行く。ね。それこそじゃあ何時まで立っても同じ事です。
 本当に言うたらもう修行と言うたら修行ですから。ね。例えばならここで修行しよる方達がです。もう本当に例えば、ね、もう
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 本当に例えば、ね。もう外には出らんなら、外には出らんという本気での修行を、まあ始めるとしましょうか。ね。そんならもうそれこそ只今修行中という看板かけたら、誰もその人を誘うような人はありゃしません。グズグズしとるから人から誘われる。誘われると、(このようにして?)誘われよりますけん、親先生どうでしょうかち。お伺いをするなら、ああ、そんなら行きなさいち私が言うはずです。ね。
 自分がこうと決めたら、絶対動いちゃならんです。この頃から末永先生が。ね。公子さんを連れて子供を連れて、ね。まだ子供がこんなに大きくなってる事を親達が知らんから。見せたいから行くと言う様なお届けをした。だから私はその事に対して、そんならおかげを頂くようにとこう言うたけれども返事が重かった。ね、公子さんを連れて子供を連れて、ね、まだ子供がこんなに大きくなっておることを親が知らんから見せたいから行くというような御届けをした。
 だから私はそのことに対して、ね、そんならおかげを頂くようにとこう言うたけれども、返事が重かった重かったから、末永先生がこちらからパッと心で悟った。そしてその次にはもう止めたとこう言う。ね。例えば出て良いの悪いの、そう言う事っじゃないです。只今修行中、もう例え、例えば上野先生なんかですね、それこそ親が亡くなったっちゃ学院の時に帰らなかったです。ね。次々と両親が亡くなられました。ね、お母さんが先じゃったでしょうかそん時は帰った。
 けれども次にお父さんが亡くなられたという電報が行った時には、これはと心に思うたんでしょう。親が亡くなっても帰りませんでしたよ。只今修行中だもの。私はそれでなからにゃいかんと思うです、本当は。ね、神様に一途が通らんです。ちょっと理屈つけちゃ、もう出る。ね、こんな訳ですからち言って出る。そう言う事で本当な修行が出けるはずは絶対ありません。そういう信心が例えばなら何十年続いとったっちゃ、ね、そのヤーというものが出らないから、おかげにはならん発動が回らんです。ね。
 それをなら一生と言う事じゃない。ただいま修行中と看板つけておる時だけはです、これは自分でこうと決めたら、それをこうとやり抜かなければ、そういうそういう力がね、私は力を受ける事になるのです。ね。めぐりのお取り祓いとしてお礼が言えれる。または、ね、そういうチャンスと、またとないんならそれこそ足がガタガタ震うような事であってもです、それを元気を出してそれを頂こうという気になって、初めて力がつくようなおかげが受けられるのです。
 お互い信心によって力を受けようという、いわばおかげを頂かせてもらったらね、出来るです。どんなに脇から見て、苦しかろうごたってあってもです。私は思うんですけれどもね、一生懸命の修行をしておる時にですね、術ないようなものが、その姿に見えたら、もうその修行は駄目です。ね。どんなに人の真似ん出来んごたる修行しよる時であってもです。ね、まあ言うならば私の修行中にです、ね、破れた服を着て、破れた靴を履いて、破れたカバンを下げて歩いておる時です。ね。それこそどこの乞食じゃろうかと言った様な風には、皆には私は思わせなかったと思うです。ね。
 心が燃えておりますから。ね。少し修行させてもらいよると、何かこう惨めな感じに見えて来る人があります。もうその人の心の中に元気な心がない証拠です。ね。もう、あの人の修行ぶりを見よると、横におるモンまで元気ん出るというごたる修行でなかにゃいかんです。ね、あの人の側におると、それこそモリモリと元気が湧いて来ると言った様なです、迫力のある修行でなかにゃいかんです。そこん所をです、ね、私は元気な心で信心せよと。それはいつも言う元気な心ですけども、今日はここではです。
 井戸が清水になるまでのおかげを頂く事の為にはと言うのです。ね、本当に輝かしいおかげを頂く事の為にはと言うのです。本当に力を受ける事の為には、この元気な心で、今日の私が言う意味の元気な心で信心をするという、ここの所がやって退けられる信心にならなければ、いつまで立ってもおかげ信心に終わってしまうです。それこそ桜井先生じゃないけれども。ただ良か信心がずうっと出来よるというだけじゃいかんです。ね。人は認めても、神様から認められるという信心でなかにゃいかんです。ね。
 神様に認められるという事はです、もう一から十までです。ね。もう神様本意でなからにゃいかんです。どこに行ってきすちゅう何てん、自分本意になっとるから、どこに行きますになってしまうのです。ね。神様が行って来いよと。ね、言われた時でなからなければ、ほんなモンじゃないですという信心。ね。人間からいわば認められたりのというのではなくて、神様に認められると言う事が、私は元気な心で信心しよらなければ出けないと思います。お互いが長年、何十年続いておってもです。
 愈々の時にヤーという心、力が出なかったらもうそれは、ね。ただ続いておるというだけの信心です。だからこちらがね言うならば本当にこの、火の玉のような信心修行体というかね、になっておかなければ、そこが人情の方へ負けるです。傾いてしまうです。それは力が受けられんです。ね、いかにも厳しいごたるけれども、それをやり抜かせて頂く時に、自分の心の中に、それこそ喜びが湧いて参ります。ね。昨日から今日にかけての、昨日の言うなら、ね、もりもりの力と言われる。
 その力というのは、どう言う様な生き方をさせてもろうたら。力が受けられるかと言う事が、昨日の朝には説いてなかったから、そこを聞いて頂いた。言うなら昨日の御理解の結論である。同時に、今日の御理解のです。お互いがですそれこそ井戸は清水になるまで。懇々と尽きぬおかげが頂けて来る、限りなく頂けれるおかげを頂く為には。ね、本気で井戸ざらえの信心が出けなければいけない。それにはね、元気な心で信心せよと仰せられる、その元気な心が身につかなければ、そういう輝かしいおかげにはならんという事を、今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。